可能性と蓋然性 (下)
前回の続き.
蓋然性と可能性という観点からだと,人はおおむね3種類に分けられると書きました.
“(1)可能性も蓋然性も理解している人”,“(2)可能性は理解しているけれど蓋然性の概念を有していない人”,“(3)可能性も蓋然性も意識していない人”の3種類です.
厄介だと思うのは,これらを声の大きさで分けると,基本的には
“(3)可能性も蓋然性も意識していない人”>“(1)可能性も蓋然性も理解している人”>“(2)可能性は理解しているけれど蓋然性の概念を有していない人”
の順番になるであろうことです.
(3)の可能性も蓋然性も意識していない人というのは,他の可能性があることすら認識していないわけですから,大きな声を上げることができます.
(1)の可能性も蓋然性も理解している人は,ある事柄に対して意見を強く主張する場合はその蓋然性が高いか否かを調べてからそれを行います.
故に主張するのは遅くなりますし,蓋然性の高いものが複数考えられる場合は主張が鈍くなる場合もあります.ただし,十分に蓋然性が高いと考えられるものに対しては断定的な主張もすることができます.
(2)の可能性は理解しているけれど蓋然性の概念を有していない人は,いろいろな可能性の提唱はするものの断定的な主張はほとんどできなくなってしまいます.だから声が小さくなる.
現実の世界でもこの傾向は十分に強いのでしょうが,ネットの世界では更に強調されるのではないかと考えています.
ネット上の主張の大きさと実際にそう考えている人の人数にはかなり開きがあるのではないか?という推測です.
カープの例で言えば,昨年の栗原選手に対する批判などでしょうか.
ネット上では「栗原がもっと4番の働きをしていれば勝てていた」といった主張が少なからずなされていたように記憶しています.
ですが,個人的な予想としては,現実で一番多い意見は「栗原選手の働きに100%満足しているわけではないが,チームの失速の大きな原因が彼とは考えていない」辺りではないかなと想像しています.
もちろん,栗原選手に対して否定的な意見を持つファンの方が大多数を占めているかもしれませんし,否定的な意見を言う方はネットの中だけで栗原選手に好意的な意見の方がほとんどかもしれません.
おそらく広島在住で他のファンの方と話す機会が多ければ,実際の認識とのずれ (もしくはずれが存在しないか) を認識できるのでしょう.ネット経由でしか情報を多く得ることができないが故の悩みですね.
いずれにせよ,意見の多さ・声の大きさが必ずしも現実な意見の量を示しているということはなく,このギャップはネット上では更に大きくなるのではないかと思います.
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村
にほんブログ村