可能性と蓋然性 (上)
以前に少し触れたこともありますが,可能性と蓋然性についての話.上下2回の予定.
可能性と蓋然性,英語ではpossibilityとprobabilityですが,これらは良く似てはいますが厳密には異なる概念です.
ソースはネット,という話なので信憑性が如何程のものかは分かりませんが,かの夏目漱石はその違いを学生に問われ,「今,私がこの教壇の上で逆立ちする可能性はあるが,その蓋然性はない」と言ったとか何とか.
蓋然性は端的に言えば確実性の度合いであり,要するに確立の考えに基づいた言葉です.
可能性という言葉は,そのこと自身がありうるかどうかというものを (本来は) 表す言葉です.
厄介なことは,蓋然性が低いということは理屈として言えても,可能性がないことを言うのはかなり難しい (というか論理的にほぼ不可能) ということです.
この蓋然性と可能性という観点から考えると,人は概ね3種類に分けることができます.
すなわち,“可能性も蓋然性も理解している人”と“可能性は理解しているけれど蓋然性の概念を有していない人”そして“可能性も蓋然性も意識していない人”です.
可能性も蓋然性も理解している人は,蓋然性に基づいて話を進めることができます.ですから蓋然性が高いことについて対策することができます.リスクアセスメントができる人と言い換えてもいいかもしれません.
可能性は理解しているけれど蓋然性の概念を有していない人というのは,例えば自分以外の意見 (可能性) などでも聞きいれることは出来るものの,その意見間での蓋然性の差が認識できない人たちです.
最近のリスク論で言えば,「どんなことだって起こりうるのだからある物事だけ批判するのはおかしい」という意見や「大丈夫だとは言うけれど可能性は0ではない」というようなことをいう方たちですね.
自分自身はここに入っていると思っていて,蓋然性について理解していないために物事を断定的に言うことについて躊躇してしまいます.
最後の,可能性も蓋然性も意識していない人というのは,例えば他者の意見といった他の可能性について考慮することもできないために,自身の考えや経験,理論に疑いを持たないような人たちのことです.
一応最後に断っておきますが,大事なことはこれらの言葉そのものを知っているかどうかではなく,概念としての違いを理解しているかどうかということです.
「可能性はあるかないかであり可能性が高いという表現は間違い」といった国語的な問題もあるようですがそこに対して意見するつもりはありません.
というか,蓋然性という言葉は一般的ではありませんからこれまでのブログでも (多分) 蓋然性という言葉は使っていませんでしたし,これからも使わないと思います.何より上述の通り,自分自身が蓋然性という言葉は知っているもののそれに対する認識が甘いため可能性と区別ができていいない状態です.
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